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 モエンジョダロ遺跡群


モエンジョダロ遺跡群
遺産形態 文化遺産
遺産名称 モエンジョダロ遺跡群
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遺産規模 約2.5km2
所在地 パキスタン・イスラム共和国シンド州スックル県ラールカナ地方
位置図 位置図
地理(周辺状況) モエンジョダロはパキスタン南東部、シンド州スックル県ラルカーナーの南約56kmに位置している。かつてはインダス河西岸のほど近い場所にあったと考えられるが、現在は河岸から1kmほど離れている。
遺跡のあるシンド州は砂漠気候に属しており、世界的な暑熱地である。降水量も少ないため、農業は灌漑に頼っている。ラルカーナー地方は肥沃な平野部を有し、「シンドの庭」と呼ばれており、主な栽培作物はサトウキビ、小麦、米、大麦、アブラナ、マンゴー等である。灌漑農業とその加工が主な産業であるが、塩害の深刻な問題も抱えている。農業の他には、ラクダの飼育、染色、塩生産などが行われている。
周辺地域の住民は主にスィンディー民族で、宗教はイスラム教、スィンディー語話者が過半数をしめている。しかし、実際には多くの民族が入り交じっており、シンド州全体では、ウルドゥー語を話すムハージル(インドからのムスリム避難民)が20%を占めている。また、ここ500年ほどの間に西方のバローチスターンから移住してきたバローチ民族などが独自のアイデンティティを保持し続けている。
世界遺産登録状況 登録基準 (1)ある期間を通じ又は世界のある文化上の地域において、建築、技術、記念碑的芸術、都市の構成又は景観の意匠に関し、人類の価値の重要な交流を提示するもの。
(2現存する又は消滅した文化的伝統又は文明の、唯一の又は少なくとも例外的な証拠であるもの。
登録年月日 80/01/01
危機遺産登録 なし
成立時期(時代等) 紀元前2300〜1800年
遺産概要 紀元前2500〜紀元前1700年頃、インド亜半島北西部でも高度な都市文明「インダス文明」が栄えた。1920年にハラッパー遺跡が発掘されてから研究が進み、20以上の都市遺跡を含め、現在までに300近くの遺跡が発見されている。その中でもインダス河下流域沿岸に位置するモエンジョダロ(死者の丘)遺跡は上流域のハラッパー遺跡と並び、最大規模のものである。モエンジョダロの発掘の歴史は1922年、R.D.バネルジーがハラッパーと同様の遺物を発見したことに始まる。22-27年にはJ.マーシャル、27-31年にはE.H.マッケイが大規模に発掘し、50、65年にも小規模な発掘が行われた。
遺跡全体の規模は5km2程度。西北地区には「城塞部」と呼ばれる高さ15mほどの人工の丘があり、そこに大浴場、穀物倉、集会堂など公共の建物が集中している。焼きレンガ造りの大浴場は縦12m、横7m、深さ2.5mで、南北に階段がつけられている。国庫だったと考えられている穀物倉は縦46m、横25mと大きく、十分通風を配慮したつくりになっている。
城塞部の東に広がる市街地には大小の道路が碁盤の目のように張り巡らされ、多くは焼きレンガで舗装されている。立ち並ぶ住宅も焼きレンガで造られており、戸口は大通りにではなく小路に向かって開かれている。給水・排水施設が非常によく整備されており、下水は小路の排水溝を通って大通りの溝に流れ込むようになっている。インダス文明の他都市と同じく、豪壮な宮殿や武器など、巨大な権力が存在した跡は見あたらない。遺物としては青銅製の女性像や動物像、テラコッタの地母神像などが数多く発見されており、動物の姿やインダス文字を刻んだ凍石製印章も出土している。都市の人口は3万ないし4万程度であったと考えられ、建設時とあまり規模が変わらないまま数百年続いたと考えられている。しばしば洪水の被害を受けたようで、わかっているだけでも6回は再建されている。
乾燥した気候と酷暑のため、遺跡の劣化は非常に早いペースで進んでいる。周囲の灌漑が進んで地下水位が上昇したことにより状況は悪化した。インダス河の河岸侵食が進んでいることも遺跡にとって脅威となっている。1972年には遺跡保存のために「モエンジョダロ救済国際会議」が開かれ、その結果を受けて地下水位を下げる作業が開始された。現在ではその他に、防波堤を建設する、劣化したレンガを交換する、塩分に強い植物を植えて塩害を軽減するなどの対策が取られており、貴重な遺跡を守る努力が続けられている。

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