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法隆寺地域の仏教建造物
 飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建造物。聖徳太子が7世紀の初頭に建立した法隆寺は、670年に焼失。その遺構は境内の地下に若草伽藍跡として残る。寺は7世紀後半から8世紀初頭にかけて現在の場所に再建された。

世界遺産への登録は、平成5年(1993年)。


法隆寺夢殿

世界遺産価値基準に適合する根拠
法隆寺金堂
(1)法隆寺西院の金堂・五重塔・中門・回廊・法起寺三重塔などの8世紀以前の建造物11棟は、現存する世界最古の木造建造物である。

(2)これらの歴史的建造物は、全体のデザインのみでなく、エンタシスをもつ太い柱、雲形の肘木や斗などに代表される細部のデザインにおいても、洗練された芸術的に優れたものである。

(3)これら建造物のうち、7世紀から8世紀はじめに建造された金堂・五重塔・中門・回廊は、石窟寺院や絵画的資料からうかがうことのできる6世紀以前の中国の建造物と共通する様式上の特色を備えている。これに対して、それらに引き続いて8世紀のうちに建立された経蔵・食堂・東大門や東院の夢殿・伝法堂では、新しい唐の様式の影響を認めることができる。このように、法隆寺地域の仏教建物は、当時の中国と日本の間、ひいては東アジアにおける密接な文化交流の証人となっている。さらにまた、1地域のなかに7世紀以降19世紀に至る各時代の優れた木造建造物が集中して保存されている点でも他に類例がなく、日本の、そして東アジアの木造の仏教寺院の歴史を物語る文化遺産がここに統合されているといってよい。

(4)仏教がインドから中国・朝鮮を経由して日本に伝来したのは6世紀中頃である。聖徳太子は当時仏教の普及にきわめて熱心であり、太子ゆかりの法隆寺は日本に伝来した仏教の最も古い建造物を多数保存しており、宗教史上も価値が高い。

(5)法隆寺地域の仏教建造物は、日本における仏教建造物の最古の例として1,300年間の伝統のなかでそれぞれの時代の寺院の発展に影響を及ぼしており、日本文化を理解する上で重要な遺産となっている。
遺産の真正性
法隆寺中門
 法隆寺地域の仏教建造物を構成する個々の国宝・重要文化財指定建造物は、歴代管理者の適切な維持・管理によって、意匠・材料・技術・環境のいずれにおいても創建以来の歴史を現在によく伝えている。
 1895年から1985年までの91年間に行われた保存修理事業は、法隆寺地域の仏教建造物を近代的概念としての文化財として国が保存することを決定し、それによって最初に行われた大規模なものであった。この保存事業、とくに第2期(1934〜1955)における解体をともなう調査と修理のなかで木造の歴史的建造物の修理の技術が確立した。そこでは、歴史的建造物、文化財としての真正性は次のように保証されている。

保存修復の歴史
法隆寺五重塔
 木造建造物は建造直後からその保存のための細心の日常的な推持管理が必要となる。法隆寺地域の木造の仏教建造物については、1300年間にわたって活動を継続してきた寺院組織が時々の為政者の支援のもとに適切な修理と管理とを実施してきた。近代以前では、13世紀・17世紀初頭・17世紀末に大規模な修理があり、その間にも屋根瓦の葺き替えなどが行われ、建物が保存されてきた。
 明治維新以降の近代国家日本の時代になると、1895年から1985年までの91年間にわたって国が直接関与した歴史的建造物の修理事業が法隆寺地域のものを含めて全面的に実施された。この時期の修理は、大きく2種類ある。第1は全体または部分の解体修理である建造物特有の組合わせた部材をはずして解体し、必要な修理を加え、ふたたび組上げる方式である。第2は屋根瓦の葺き替えや壁の補修などの維持的な修理である。この時期の修理の特色は、第1の方式による修理に際して、学術的に徹底的に調査し、その成果に基づいて修理方針を決めた点にある。そのために、現地には歴史的建造物の調査と修理の指導に当る保存修理技術者(保存建築家)が常駐し、学術調査と修理工事の施工管理とにあたった。また、それと並行して自動火災報知設備・消火栓設備等の防災設備も設置した。これらの事業の内容・調査結果・図面・写真等の記録は報告書にまとめて発刊している。この法隆寺における保存事業は、その歴史的建造物を保存したのみでなく、そのなかで日本の木造の歴史的建造物の保存の理念と方法が確立した点でも重大な意義のあるものだった。

1895年から1985年までの主要な法隆寺地域の歴史的建造物の修理保存事業の概要は以下の通りである。

(第1期事業)1895〜1933年

 1897年の古社寺保存法制定とともに日本の歴史的建造物の近代的な保存修理事業が本格化する。しかし、それよりさき、法隆寺では1895年から96年にかけて東院夢殿が、1897年には法起寺三重塔も修理されている。以後、1933年までに中門・廻廊ほか8棟の建物が修理された。

(第2期事業)1934〜1955年

 1934年から国は、法隆寺の全指定建造物の修理計画をたて、それによって計画的な継続的に修理工事を実施することとなった。現地には工事事務所を設置し、熟達した保存修理技術者と長年の経験を積んだ職人とを集め、調査と修理工事との両面に万全を期した。こうして1955年までの22年間に西院の金堂・五重塔および東院の夢殿・伝法堂などの22棟の建造物が調査・修理された。
 このときの修理では、たとえば西院の金堂では、軒先部分・妻飾り・高欄など、外気に曝されて腐朽し、創建後に修理あるいは改変されていた部分を残存部材を参考にして創建当初の形式に復原した。但し、補強するために挿入していた材のうち、構造上存置が望ましいものは撤去していない。また、当初材をより多く保存するため、当初の構造を変更しない範囲で鉄材による補強をおこなった。
 この工事中の1949年1月に金堂初重の柱と壁画の表面を焼損する火災が内部で発生した。このとき表面を焼損した部材については、火災前に実施していた詳細な調査結果にもとづいて旧状に復原した新材と取替え、焼損部材は新しく建設した収蔵庫に保存し、見学者に公開している。
 五重塔についても、創建後に改造されていた軒先部分・高欄・基壇等を建立当初の形式に復原した。後世の構造補強材は、金堂と同じように、必要なものは存置している。
 東院の夢殿は、調査の結果、13世紀に、屋根を高くし勾配を急にするため、上部を大きく改造していることが判明した。創建当初の部材も残存し、そのときの形式もほぼ判明したが、それでも創建当初のものに完全に復原するには資料不足であり、また、13世紀の改造の歴史的な意義も尊重し、ほぼ現状どおりの様式で修理し、創建当初のものは復原図を作成するにとどめた。
 東院の伝法堂は講堂の機能をもった建造物である。この建造物については、古記録が8世紀の貴族の橘夫人が奉納した自宅を移築・改変したと伝えていた。修理にともなう調査によって、これが事実であることが証明され、住宅のときの構造・様式も解明できた。ただし、伝法堂は講堂として改造したときの形式によって修理した。

(第3期事業)1959〜1985年

 第2期事業の実施期間に新しく東室・綱封蔵・大湯屋など17件の建造物を国宝・重要文化財に指定した。これらの修理も1959年から1985年までに完了している。

※世界遺産一覧表記載推薦書より抜粋
※写真は全て「HORYUJI OFFICIAL HOME PAGE」より転載

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