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厳島神社


世界遺産としての価値
厳島神社は、12世紀に時の権力者である平清盛の造営によって現在みられる壮麗な社殿群の基本が形成された。この社殿群の構成は、平安時代の寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなしている。また、海上に立地し、背景の山容と一体となった景観は他に比類がなく、平清盛の卓越した発想によるものであり、彼の業績を示す平安時代の代表的な資産のひとつである。

 厳島神社の社殿群は、自然を崇拝して山などを御神体として祀り、遥拝所をその麓に設置した日本における社殿建築の発展の一般的な形式のひとつである。背後に山をひかえ、全面が海に面するという、周囲の環境と一体となった建造物群の景観は、その後の日本人の美意識の一基準となった作品であり、日本に現存する社殿群の中でも唯一無二のものである。日本人の精神文化を理解する上で重要な資産となっている。

 これら建造物のうち、13世紀に建造された本社幣殿、拝殿、祓所、摂社客神社の本殿、幣殿、拝殿、祓殿は、各々が造営当時の様式をよく残し、日本に現存する社殿建築の中でも鎌倉時代に建築された数少ない建造物となっている。度重なる再建にもかかわらず、平安時代創建当時の建造物の面影を現在に伝える希有な例である。また、海上に展開する社殿群は、周囲の自然と一体となった環境をもち、平安時代の寝殿造の様式を山と海との境界を利用して実現させた点で個性的である。

 このように、厳島神社の社殿群は平安時代から鎌倉時代にかけての様式を現在まで継承し、自然崇拝から発展した周囲の景観と一体をなす古い形態の社殿群を知る上で重要な見本である。

 厳島神社は、日本の風土に根ざした宗教である神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化資産として、日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠となるものである。
保存修復の歴史
 厳島神社の社殿は、海上に建設された建造物群であるため、平安時代の造営以降、火災を含め度重なる災害に見舞われている が、その時々の国家権力や有力貴族、在地の豪族の庇護を受け、旧来通り復旧してきた。また、傷み易い環境にある建造物ではあるが、屋根葺替、塗装修理、部分修理等の建造物維持のための修理が適切に行われてきたと考えられる。
 近年以降、厳島神社の建造物の保存修復の歴史には三つの大きな節目がある。

(第一期) 1901〜1919年

 明治維新後の近代的な文化財保護制度の下で、厳島神社では1889年(明治22)から1910年(明治43)の間に主要な社殿と建造物が「古社寺保存法」による特別保護建造物とされた。これを受けて1901年(明治34)から、建造物群を次の四区に分け、順次、国庫補助金を交付して、学術的調査をともなう本格修理を実施した。

第1区 本社本殿、幣殿、拝殿、祓殿
第2区 高舞台、平舞台、左右楽房、廻廊の一部、左右門客神社本殿、左右内侍橋、長橋、揚水橋
第3区 摂社客神社本殿、幣殿、拝殿、祓殿、東廻廊
第4区 摂社大国神社本殿、摂社天神社本殿、朝座屋、能舞台、橋掛、能楽屋、大鳥居、西廻廊、反橋

 この修理の計画段階では特別保護建造物になっていなかった五重塔、多宝塔、末社豊国神社本殿(千畳閣)は最終段階で修理事業に組み込まれ、現在国宝あるいは重要文化財建造物とされている18棟の建造物が修理された。 この修理は、現地に高度な専門技術を持つ保存修復技師を常駐させ、国からは必要に応じて修復建築家を派遣して修理の指導・監督を行った。

(第2期) 1948年〜1957年

 第二次世界大戦直後の1945年(昭和20)、厳島神社背後の山が豪雨のため崩れ、紅葉谷を下る山津波となって厳島神社の建造物を襲った。この災害により摂社天神社が押し潰され、屋根を残して完全に土砂に埋もれ、廻廊の柱と床の一部、長橋、揚水橋を流失、平舞台を大破したほか、殆どの建物が床まで埋没した。そのため、1946年(昭和21)から災害復旧工事に着手し、これを引き継いで、1948年(昭和23)からは新たに10ヵ年計画で建造物の保存修理が実施された。
 第二期は災害復旧工事が主体ではあったが、摂社大元神社本殿と宝蔵の2棟は、この期間中に学術的調査に基づく本格修理がなされている。
 また、同時に火災警報装置、消火栓設備などの防災施設がはじめて設置された。この修理の記録は「厳島神社国宝並びに重要文化財建造物昭和修理綜合報告書」としてまとめられている。
 そのほか、1950年(昭和25)には、このような災害から建造物群を守るため、紅葉谷川の砂防工事が行われている。この砂防堰堤は、歴史的な風致、景観を損なわないように、現場発生材の岩石を利用し、岩組など日本庭園の手法を用いて造成された。

(第3期) 1991年〜1993年

 第二期工事終了後、およそ10年ほど経過した頃からは、痛んだものから順番に、計画的な屋根葺替や塗装修理等維持的な修 理が継続されてきた。
 ところが、1991年(平成3)9月に来襲した台風の強風と高潮により能舞台、橋掛、能楽屋、左楽房が倒壊し、そのほかの社殿も建物が傾斜したり、床が浮き上がったり、床板の一部を流出したり、屋根の檜皮が吹き飛ばされたりする等、殆どの建造物が何らかの被害を受けた、これらの被害に対しては直ちに災害復旧工事に着手し、1993年(平成5)に竣工した。
 第三期工事の竣工後は、この台風の災害復旧工事のために中断した従来の計画に戻り、主として檜皮葺の屋根葺替と塗装修理を中心とした維持修理を継続している。

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