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紀伊山地特有の地形や気候、植生などの自然環境は、多様な信仰の形態を育んできた。それらは、今なお人々の生活文化の中に息づいている。
こうした背景の下で形成された「紀伊山地の霊場と参詣道」は、単なる社寺と道の関係でなく、山岳信仰の霊場と修行の道であり、自然崇拝と浄土思想を顕著に表す文化的景観としての価値を持っている。この世界遺産は日本の「文化的景観」が公式に認められた初の事例である。


世界遺産としての価値


1資産の価値証明
紀伊山地は、標高2,000m近くの山脈が縦横に走り、豊かな降水量が深い森林を育む山岳地帯である。太古の昔から山や森、川などを神格化する自然崇拝の精神を育んだ地で、日本の古代国家の宮都の人々にも神々が籠もる特別な地域として信仰されるようになった。
6世紀に日本に仏教が伝来し、国家を鎮護する宗教となって以降、紀伊山地は仏教の山岳修行の場となり、9世紀に伝えられた仏教の一宗派である真言密教もまたこの地を山岳修行道場として定着した。10丗紀中頃から11世紀代には、日本古来の山岳信仰に密教や中国伝来の道教の神仙思想などを採り入れた修験道が日本固有の宗教として成立し、紀伊山地の中でも特に大峯山系の山岳地帯がその中心的な修行の場となった。
また、9〜10世紀にかけて仏教の影響が優勢となるにつれ、日本固有の「神仏習合しんぶつしゅうごう)」の思想が広く流布することとなり、紀伊山地はその聖地としても信仰を集めるようになった。
一方、10〜11世紀頃の「末法思想まっぽうしそう)」の流行と浄土教の普及に伴って、都の南方に広がる紀伊山地には仏教諸尊の浄土があると信じられるようになり、この地の霊場としての性質がいっそう強まった。
さらに南の海の彼方にも観音の居所である補陀洛浄土ふだらくじょうど)という仏国土が想定されるようになり、 紀伊半島の海岸から渡海往生を夢見る僧侶が南海に船出を試みることもあった。この地方の神聖性が仏国土である浄土と関連づけてことさら重要視されるようになった。
このような特有の地形、気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、紀伊山地には「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成された。

「吉野・大峯」は紀伊山地の最北部にあり、三霊場の中でも最も北に位置する。
吉野山 金峯山寺 大峰山寺
農耕に不可欠の水を支配し、金などの鉱物資源を産出する山として崇められた「金峯山きんぷせん)」を中心とする 「吉野」 の地域と、その南に連続する山岳修行の場である「大峯」の地域からなる。修験道の中心地として発展し、10 世紀の中頃には日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めるようになり、日本各地から多くの修験者が訪れる所となった。全国各地には「吉野・大峯」をモデルに山岳霊場が形成された。

「熊野三山」は紀伊山地の南東部にあり、「熊野本宮大社くまのほんぐうたいしゃ)」、「熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃ)」、「熊野那智大社くまのなちたいしゃ)」の三つの神社と「青岸渡寺せいがんとじ)」及び「補陀洛山寺ふだらくさんじ)」の二つの寺院からなる。三つの神社は10世紀後半に仏教の影響を受けて互いに他の二社の主祭神を合祀するに至り、それ以来「熊野三所権現くまのさんしょごんげん)」として日本で最も霊験があると崇められるようになった。
熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社

また、青岸渡寺と補陀洛山寺は神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院で、特に補陀洛山寺は南の洋上に補陀洛浄土を求め、死を賭して漕ぎ出す「補陀洛渡海ふだらくとかい)」信仰で知られた寺院である。
青岸渡寺 補陀洛山寺
 
「熊野三山」ヘの参詣は、11世紀に皇族及び貴族の一行が修験道の行者に導かれて盛んに行うようになったが、15世紀後半には庶民が中心となった。また、「熊野三山」の社殿は他の神社建築に類例を見ない独特の形式を持ち、全国各地に勧請かんじょう)された約3,000ケ所以上の熊野神社における社殿の規範ともなった。

「高野山」は空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道場として創建した「金剛峯寺こんごうぶじ)」を中心とする霊場である。金剛峯寺の伽藍がらん)形式は、真言密教の教義に基づき本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので、全国に4,000ケ寺ある日本の真言宗寺院における伽藍の規範となった。
金剛峯寺 慈尊院
丹生官省符神社 丹生都比売神社

三つの霊場に対する信仰が盛んになるにつれて修行者や参詣者が増加し、「大峯奥駈道おおみねおくがけみち)」、 「熊野参詣道くまのさんけいみち)」、「高野山町石道こうやさんちょういしみち)」と呼ばれる三種類の参詣道が整えられた。これらの参詣道は人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場にほかならず、一般の街道とは明らかに性質を異にしていた。
大峰奥駈道 熊野参詣道(小辺路) 高野山町石道

以上のように、紀伊山地の霊場は主として修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の根本道場である「高野山」の三ヶ所からなり、これらの三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」 は1,000年以上にわたりおびただしい数の信仰者を惹きつけ、日本人の精神的、文化的な側面における発展と交流に極めて重要な役割を果たしてきた。

また、 自然崇拝の思想は、本資産を構成する要素の一つであり、特に熊野速玉大社の「ゴトビキ岩」や熊野参詣道沿いの「七里御浜しちりみはま)」に臨む「花の窟はなのいわや)」、「那智原始林」、「仏教嶽ぶっきょうがたけ)原始林」及び「那智大滝」などは、その思想に基づく典型的な事例である。
これらの神聖視された場所は後に神社の神域として発展し、仏教とも融合する過程で、日本固有の修験道などの山岳信仰における行場としても重視されるようになった。
那智原始林
那智大滝 ゴトビキ岩

本資産は、信仰に関わる有形・無形の多様な文化的諸要素が自然の諸要素と一体となって体現された信仰の山の模範例と位置付けることが可能であり、アジア・太平洋地域を代表する信仰の山の一つとして極めて高い価値を有する事例であるといえる。
2真実性の証明
(1)記念工作物と遺跡の構成要素に関する真実性
意匠に関する真実性
本資産を構成する記念工作物の多くは、創建以来、老朽化や罹災などによる修理・再建を繰り返してきた木造建築又は石塔塔婆せきとうば)等の石造構造物である。 しかし、それらの基本的な意匠は中世以来保たれてきたと考えられ、 近世以前の修理時に改造を加えられた箇所も補強あるいは小規模に行われた部分的な変更であって、その建造物又は構造物等の歴史的な価値を表現している平面、構造、立面意匠等については創建当初のままである。
近代以降の保存修理事業においては、創建後に修理あるいは改変されて文化財としての価値を損ねている後補の部分や加材について撤去又は復原を行い、欠失した部分や部材について復旧を行った例がある。しかし、これらについても修理現場に常駐する修復技術者による材料、技術、痕跡等の綿密な調査と類例研究の結果を踏まえ、文化審議会における厳密な審査に基づく国の許可を経ている。
一方、参詣道については、近代の道路が歴史的な参詣道とは別に敷設された区間を中心として原状が良好に保たれており、除草及び倒木の撤去、あるいは降雨による被害箇所の比較的小規模な復旧など日常的な維持管理が行われてきた。 資産価値に影響を及ぼす可能性のある現状変更等については、記念工作物と同様に文化審議会における厳密な審査に基づく国の許可を必要としている。

材料に関する真実性
紀伊山地は日本の中でも高温多雨な地域に当たることから、本資産に含まれる記念工作物のうち、多くの木造建築は常に腐朽、虫害、風雨による劣化、破損の危険にさらされてきた。ただし、経年による劣化や破損は、災害等による急激な被害とは異なり、屋根や柱の根元といった部分から徐々に進行するのが通常である。したがって、修理を要する場合においても、劣化し又は破損している部分及び部材のみの取替えを基本とし、解体、半解体、葺替え、塗装といった修理の方針及びその実施時期等を予め判定することにより、当初材を可能な限り遺こす措置を講じている。また、新材で補う場合においても当初材と同種の材を用いることとし、取り替えた部材のうち当該記念工作物の建立時期や沿革を示す重要な部材については別途保管することとしている。  
また、参詣道の敷石や町石、石塔婆などの石造構造物等の修理においても、アナスタイローシス(剥落した部分を用いてする記念物の復元)の手法を徹底することにより材料の真実性は確実に伝達されている。

技術に関する真実性
技術の真実性は、材料の真実性と深く関連している。日本には破損した部分を解体し、 部材の修理を行い、再び組み立てるという伝統的な修理方法がある。これは日本の木造建築が柱・はり)による軸組じくぐみ)構造であることと並んで、部材の継手、仕口しぐち)によるジョイント構法であるという事実に裏付けられている。このジョイント構法は、当初の技術や部材を損ねることなく建物を解体し、修理を行い、再度組み立てることを可能にしている。
特に、建物の組立てに当たっては、建立当初の部材の加工技法を調査・研究し、その結果に基づいて取替え部材の仕上げを行っている。また、腐朽又は破損した部材を取り替える場合や欠失した部分を復原する場合には、伝統的な部材修理方法である根継ねつ)ぎ法(柱の根元の腐朽部分) や矧木はぎき)・継木 (毀損している箇所) の技術を用いるなど、技術の真実性の保持にも最大の努力をはらっている。

位置・環境に関する真実性
本資産に含まれる記念工作物及び遺跡の構成要素についてはすべて創建当初の位置を踏襲しており、発掘調査で判明した宗教関連の地下遺構についても重要な考古学的・歴史的資料として原位置において厳密な保存が図られている。 また、社寺境内や参詣道とその周辺の地域を広く含む環境も、神聖性を醸成する上で極めて良好に保たれている。このような理由により、記念工作物の位置と環境に関する真実性は十分保持されている。

(2)文化的景観の真実性及び完全性
信仰の山の文化的景観の構成要素は、各社寺境内に遺存する歴史的建造物及び石塔婆などの建築構造的な遺構や、参詣道等の宗教関連等の遺跡、自然物又は自然の地域など、歴史的に神聖性が極めて高いと認識されてきた多様な「場所」からなる。このような神聖性の高い「場所」では、神道、仏教、修験道などに関連する各種の宗教的な儀礼等が今なお継続的に行われており、「場所」 の有形的な諸要素とその性質のみならず、各々の「場所」 で行われる無形の諸要素とその性質に関する真実性は極めて高い。

また、それらを含む広い山岳の自然的地域には、天然記念物に指定されている原始林や独特の動植物の生息地又は自生地などが存在するほか、サクラの樹叢じゅそう)など古くから人間の芸術的感興を誘発してきた自然的な名勝の地域などが存在し、それぞれの独特の性質と構成要素に関する真実性は極めて高い。
以上のように、本資産を構成する文化的景観の構成要素は自然から文化に至る極めて広い範囲に及び、それらの生態系のみならず、宗教的、文化的、審美的、芸術的関連事象が調和よく保たれた状態にあることから、文化的景観としての完全性の条件をも充足している。

また、紀伊山地は伝統的に林業の盛んな地域であり、線状にのびる参詣道や川に沿って展開する森林の多くはスギやヒノキを中心とする人工林となっている。 これらの森林において長年継続されてきた林業は、信仰の山の経済的基盤ともなってきた重要な地場産業であり、人工林の景観は参詣道や川とともに信仰の山の文化的景観を構成する重要な要素となっている。それらの地域は本資産の緩衝地帯に含まれ適切な管理が行われていることから、本資産と一体となった緩衝地帯の全域において、文化的景観に関する完全性の条件は十分に保持されている。

修理及び整備の歴史

1 吉野・大峯

吉野山
史跡及び名勝の重要な構成要素であるサクラの樹叢については、奈良県や吉野町などが枯損木の処理や病虫害の防止対策、 植樹等を継続的に実施しており、保存状況は極めて良好である。
吉野水分みくまり)神社
1926年から1927年まで本殿の半解体、1928 年に幣殿の解体修理を行い、1951 年に台風の被災による本殿などの補修、1973年から1975年まで幣殿・拝殿の屋根の葺替え及び部分修理を行った。 1986年から1987年まで楼門と回廊の全面的な解体修理を行い、近年改造された間仕切や柱間装置を復旧又は整備した。現在、個々の建造物及び境内の保存状況は極めて良好である。
金峯きんぷ)神社
吉野山の山上近くに位置し、境内には本殿、社前には大峯奥駈道に面して修行門 (二の鳥居) が建つ。これまでに修理事業又は整備事業を特に実施してはいないが、境内の保存状況は極めて良好である.
金峯山きんぷせん)
本堂については、1916年から1924年までに解体修理を実施し、1980年から1984年まで屋根の檜皮(ひわだ)の葺替えと防災施設の改修等を実施した。二王門については、1949年から1951年まで解体修理を実施した。銅鳥居については、1966年から196年まで基礎部分をも含めた全面的な解体修理を実施した。これらの建造物を含めた境内の保存状況は極めて良好である。
吉水神社
1941年から1943年まで書院の全面的な解体修理を行い、1971年から1972年まで書院の舞台部分における束柱(つかばしら)の取替えと床組の補強に重点をおいた修理を行った。 建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
大峰山寺
1983年から1986年までに本堂の解体修理と地下遺構の発掘調査を行った。 本堂の内陣の部分は半解体修理、外陣の部分は全面的な解体修理を行い、礎石は内外陣とも全部据直した。解体修理に伴って地下遺構の発掘調査を行い、本堂の建築の時代的変遷等を把握した。地下遺構については解体修理後に埋め戻して保存しているほか、建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。

2 熊野三山

熊野本宮大社
1801年から1807年まで旧社地である大斎原おおゆのはら)に再建された現本殿以外の建造物群、1889 年に発生した熊野川の大洪水により大半が流失したが、かろうじて流失を免れた本殿の建造物を1891 年に現在の社地に移築した。現社地及び旧社地大斎原の保存状況はともに極めて良好である。
熊野速玉大社
2002 年の史跡指定以降に、建造物等の修理事業や境内の整備事業が実施されたことはないが、背後の神倉山の樹叢及びゴトビキ岩、天然記念物に指定されているナギの古樹等を含めた境内の保存状況は極めて良好である。
熊野那智大社
2002年から2004 年まで本殿、八社殿、御県神社及び鈴門・透塀すきべい)の屋根の葺替工事を実施中である。建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
青岸渡寺
1924年に解体修理を実施し、1962年及び1987年に屋根の檜皮ひわだ)の葺替えを行った。建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
那智大滝
信仰の対象でもある那智大滝については、自然的名勝であることから特に修理事業や整備事業を行ってはいないが、滝の水量・水質、周囲の樹叢等の保存状況は極めて良好である。
那智原始林
禁足地として古くから保護されてきた那智原始林についても特に修理事業や整備事業を行ってはいないが、保存状況は極めて良好である。

3 高野山

丹生都比売にうつひめ)神社
1932年に楼門の解体修理、1963 年に屋根葺替え及び部分修理、1993年に半解体修理を実施したほか、1977 年には本殿の屋根葺替えと彩色修理を実施した。建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
金剛峯寺
不動堂については1908年に解体修理、1963年に半解体修理、1991年に災害に伴う部分修理、1996年から1998 年まで耐震補強工事を伴う解体修理をそれぞれ実施した。
奥の院経蔵きょうぞう)については1963年に部分修理、1978年に半解体修理、1979年に屋根葺替え及び部分修理、1991年に災害に伴う部分修理を実施した。
徳川家霊台については、家康霊屋と秀忠霊屋を対象として1962 年に災害に伴う半解体修理を行った。
山王院さんのういん)本殿については、1979 年に本殿3棟のうち丹生明神社社殿及び高野明神社社殿の半解体修理、鳥居、透塀とともに総社社殿及びの解体修理を行った。
大門については、1986 年に解体修理を実施した。
金剛三昧院多宝塔こんごうざんまいいんたほうとう)は1906 年に解体修理、1949 年に屋根葺替え、1969 年に部分修理、1979 年に屋根葺替え及び部分修理を行った。同経蔵については 1979 年に屋根葺替え及び部分修理、2001年に屋根葺替えを行い、客殿及び台所については 1969 年に屋根葺替え、四所明神社ししょみょうじんしゃ)本殿については1969 年に解体修理、1995 年に屋根葺替えをそれぞれ実施した。
奥の院に所在する石造の松平秀康及び同母霊屋については1967年に解体修理、1979 年に災害に伴う部分修理を実施したほか、木造建築である上杉謙信霊屋については1966 年に災害に伴う解体修理、1995 年に屋根葺替え及び部分修理を実施した。同じく木造建築である佐竹義重霊屋については、1965 年に災害に伴う屋根葺替えと部分修理、2001年に屋根葺替えを行った。
また、国宝又は重要文化財に指定されてはいないが、 史跡を構成する歴史的建造物として、 1988年から1989 年まで金剛峯寺本山地区に属する真然堂の解体修理と発掘調査を実施したほか、1994年から1998 年まで真然堂を除く大主殿、奥書院、経蔵、鐘楼、護摩堂、山門、会下門えげもん)の屋根の葺替え、かご塀の屋根葺替え及び部分修理を実施した。
以上の建造物を含む金剛峯寺境内の保存状況は極めて良好である。
慈尊院
1972 年に弥勤堂の屋根葺替えと部分修理、1993 年に再び屋根葺替えを実施した。建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
丹生官省符にうかんしょうふ)神社
1976 年に解体修理、2001年に屋根葺替え及び彩色修理を実施した。 建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。


4 参詣道

大峯奥駈道

現在も修験道の峰入りの修行が行われ、旧状をよく保っている。道と沿道の宿跡、行場等の交通及び宗教関連遺跡、寺社関連遺跡などを文化財保獲法の下に厳重に保護しているのみならず、吉野・熊野国立公園の区域にも含み自然環境を良好に保全している。
仏経嶽原始林は、八剣山はっけんざん) (仏経嶽) と弥山みせん)を結ぶ稜線の南東斜面約19ha の地域を占める亜高山性のシラビソの常緑・針葉樹林である。1922 年に天然記念物に指定され、また、吉野・熊野国立公園特別保護地区に指定されていることから、樹叢の厳密な保存管理が行われている。オオヤマレンゲ自生地は、弥山から八剣山を経て明星ケ岳との鞍部に至る約108ha の区域に当たる。1928 年に天然記念物に指定され、また、当地は吉野熊野国立公園特別保護地区に指定されていることから、1996 年以来、ニホンジ力による被害からオオヤマレンゲを保護するための施設の設置を行っている。
玉置神社は大峰山脈南端の玉置山の山頂近くに所在する神社で、境内の社務所及び台所は修験道の信仰形態を知ることができる建造物でもあり、1988 年に重要文化財に指定された。 これまでに建造物の修理事業又は境内の整備事業は行われていないが、所有者による維持的措置は確実に行われており、建造物を含む境内の保存状況は極めて良好である。
野参詣道
熊野参詣道 (中辺路なかへち)) については1978年から1982年まで並びに1997年及び1998年に、熊野参詣道 (小辺路こへち)) については2001年及び2002年に、それぞれ道の復旧・復元及び休憩施設及び便益施設等の設置事業を実施した。
熊野参詣道 (伊勢路) については1980年に参詣道本体、一里塚、茶屋等の関連施設、道標等についての調査を実施し、その成果に基づくなどして1997年から2002年まで道の復旧、復元、 休憩施設の設置、解説版設置等の整備事業を実施した。 これらの参詣道については、今後とも、同様の整備事業が継続的に実施される予定である。
また、熊野川及び七里御浜については、自然の何川や海岸が参詣道そのものを構成する文化的景観であるほか、それらに沿って所在する花の窟や熊野の鬼ケ城附獅子巖おにがじょうつけたりししいわ)についても、 自然の巨岩や奇岩からなる古来の霊地及び名所地を構成する独特の文化的景観をなしており、 特に修理などの人為的な措置を施してはいないが、極めて良好な保存状況にある。
高野山町石道
1986年から1998 年まで及び2000年から2002 年まで沿道に所在する町石の修復、道の復旧・復元、休憩施設の設置等の整備事業を実施した。道と町石の保存状況は極めて良好である。


※世界遺産一覧記載推薦書から抜粋

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