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 シルクロードの文化が遣唐使によってもたらされた平城京。古都奈良の建造物群は、8世紀の日本の木造建築技術が、中国や朝鮮半島との交流によって、高度な文化的・芸術的水準にあったことを示し、その後のわが国の建築の発展に深い影響を与えた。地上に残る建物だけでなく、地下に埋もれた遺跡である平城宮跡も登録された。また、春日山原始林も含まれ、春日大社の神山として両者が一体となった景観は、わが国独特の神道思想によって形成されてきた。そのすばらしい風景が、優れた文化的景観との評価を得た。

世界遺産への登録は、平成10年(1998年)。

東大寺
東大寺
エリアマップ 薬師寺
薬師寺

元興寺
元興寺


世界遺産としての価値

1、世界遺産価値基準に適合する根拠
春日大社
(1)奈良の寺院の多くは、8世紀に中国大陸や朝鮮半島から伝播して日本に定着し、日本で独自の発展をとげた仏教建築群である。これらの建築群は、8世紀の日本の木造建築技術が高度な文化的・芸術的水準を持っていたことを示し、文化的交流を例証するものである。しかも、現在の中国や韓国では当時の木造建築物のほとんどが失われており、その世界史的価値はきわめて高い。また、中世の東大寺の諸堂再建時に「大仏様」なる建築様式が採用され、従前の伝統的な「和様」に加味した新たな建築様式が開発されるなど、その後の同種の建築の規範として大きな影響力を保ち続けた重要な事例群である。

(2)登録遺産は日本の代表的な古代都城を構成する資産群であり、とりわけ平城宮跡は失われた古代宮都の考古学的遺跡として貴重な事例である。9世紀以降の宮都である平安宮が、ほぼ11世紀の期間にわたって平安京という同一都市の中に存在し続けたのに対し、平城宮は710年から784年までの約74年間と存続期間がきわめて限定されている。しかも、中世以降の奈良の町が8世紀の平城宮の位置から遠く離れた平城京の東縁部分で発展、拡張したため、平安宮のように都市開発による歴史的な変容を受けることがなく、廃都時の地下遺構がきわめて良好に残存しているのである。木造建築であるが故に、地上の構造物の大半は失われ土壇などの地形に痕跡をとどめるのみであるが、地下遺構はほぼ完全に保存されている。同時に土器、瓦はもちろんのこと、8世紀の社会・経済・文化をつぶさに語る木簡などの文字史料に関する豊富な遺物が良好な保存状況のもとに埋蔵されており、遺跡の持つ歴史的・考古学的価値はきわめて高い。

平城宮跡
(3)登録遺産を構成する個々の建造物は、古代の律令制拡充期における寺院の威容を伝える建築アンサンブルで、日本の古い形態の寺院建築を知る上で重要な見本である。

(4)登録遺産を構成する個々の建造物は、神道や仏教など日本の宗教的空間の特質を現す顕著な事例である。また、これらの建造物群をとりまく自然環境の中でも、春日大社の社叢は社殿の背後に展開する神域をなし、特定の自然の山や森を神格化しようとした日本独特の神道思想と密接に関係する文化的景観の顕著な事例である。加えて、古都奈良では神道や仏教をはじめとする宗教儀礼や行事が盛んに行われ、市民の生活や精神の中に資産が活用され、文化として生き続けている。

2、遺産の真実性
唐招堤寺
(1)意匠の真実性
各建造物の構造・形式には、近代以前の修理によって改造を加えられた箇所があるが、その多くは補強あるいは便宜的に小規模に行う変更に伴う部分的な変更であって、その建造物の歴史的な価値を表現し ている平面・構造・内外の立面意匠は創建当時そのままである。  近代以降の保存修理事業においては、創建後に修理あるいは改変されて文化財としての価値を損ねている後補部分や後補材の、撤去、復元、欠失した部分や部材の復旧を行った例がある。しかし、これらは主として奈良国立文化財研究所所属の建築史研究者や奈良県文化財保存事務所所属の修復建築家による材料、技術、痕跡等の綿密な調査と類例研究の結果を踏まえ、さらに現状変更には文化財保護審議会における厳密な討議と審査に基づく国の許可を必要としており、いささかも推定の部分はない。

興福寺
(2)材料の真実性
 日本の高温多湿な気候のもとで、木造建造物は常に腐朽、虫害、雨風による劣化、毀損の危険にさらされている。これらの毀損した材は、伝統的に建造物の構造の健全な保存のために新材に取り替えている。しかし、そうした危険にさらされている箇所は、柱根元、軒先、屋根材料、基礎など、主として周辺や末端部に集中しており、その取り替え部分もほとんどがそこに限定されているといってよいのであって、構造体の骨格的な基本部分と内部には当初材が残存するのが常である。日本の木造建築物は多数の同形式・同寸法の材を規格材のように使用することを特徴とし、そのための実際的な規矩・木割の技術が発達してきた。したがって、同じ形状の部材が建物の至る所で使われており、欠失・毀損した部材と同じ部材が他の部位に残存しているため、毀損材の正確な復元を可能にしている。また、古代の都城遺跡である平城宮跡は、地下遺構の残存状況がきわめて良好であり、その歴史的・考古学的な真実性は厳正に保証されている。そして、遺跡が脆弱な土と木で構成されているため、その保存には特に留意し、長期間にわたる試験研究および調査研究に基づいた遺跡の保存整備が行われている。

(3)技術の真実性
技術の真実性は材料の真実性と深く関連している。日本には伝統的に解体あるいは半解体という修理法があるが、これは日本の木造建造物が柱・梁による軸組構造であることと並んで、継手、仕口によるジョイント構法であるという事実に裏付けられている。このジョイント構法は、当初の技術や部材を損ねることなく建物を解体し、修理を行い、再度組み立てることを可能にしている。特に、建物の組立にあたっては建物創建当初の加工技法を調査・研究し、取替部材を仕上げている。また、修理不可能な腐朽・毀損部材の取り替えや欠失部分の復元の場合には伝統的な部材修理方法である根継ぎ法(柱の根元の腐朽部分)や矧木・継木法(毀損している箇所)の技術で修復を実施するなど、技術の真実性の保持にも最大の努力をはらっている。

保存修復の歴史
春日山原始林
 古代には、朝廷関係の建造物の建立や修理は官の営繕組織が行い、建都や造寺など大規模工事には臨時の造営組織が設けられた。中世には、幕府や大寺社には専属の工匠がおり、建築工事を独占していた。江戸時代には、寺社の造営や営繕修理は幕府の検分を受け、前代にあった建物の規模・意匠を越えないよう、伝統的形式を尊重・継承することが主たる方針となっていた。
 1897年に「古社寺保存法」が制定されてからは、文化財保護を目的とした近代的な保存修理が行われるようになった。奈良県には専任の技師が置かれ、その指導・監督のもとで、破損の甚しい建物から順次根本的な修理が行われていった。
 なお、江戸時代末まで式年造替の制度によって古来の建物形式を厳密に守ってきた春日大社では、明治以降は主に屋根葺替を中心とする小修理を約20年毎に行って、式年造替の伝統を守っている。
 春日山は、841 年に狩猟と伐採が禁止されて以来、春日大社の神山として保護されてきたもので、16世紀には風害等の跡地に植栽が行われたことが記録に残っている。明治になって、1871年に国有地となり、1880年に設定された奈良公園の範囲が1888年に拡張された際には、春日山も公園地に編入された。これによって、寺院・神社と自然とが一体となった環境が保存されることとなり、広大な公園地の大部分を占める国有地の管理には奈良県があたることとなった。
 平城宮跡は、都が京都に移った後、長い間水田となっていたが、一部の建物基壇跡は土壇として残されていた。江戸時代末と明治時代に地形や地名を基に調査研究が行われたのを契機として、有志による保存運動が始められた。1919年に「史蹟名勝天然記念物保存法」が制定されると、1922年に史跡に指定され保存されることとなった。

※世界遺産一覧表記載推薦書より抜粋
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