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日光の寺社

 8世紀末の仏僧勝道による日光開山以来、約1,200年の歴史を有し、古くから山岳信仰の聖地となっている。 自然環境と一体となって、神道・仏教・徳川家墓所の複合した宗教的霊地としての日光山の歴史を現在まで継承している。二荒山神社、東照宮、輪王寺に属す103棟からなる建造物群及びこれらの建造物群をとりまく環境は、日本史上極めて重要な位置づけをもっている。

 世界遺産への登録は平成11年(1999年)。


世界遺産としての価値
 17世紀初期、日本の政治的統合を果たした徳川幕府は、江戸に事実上の政治首都を置いた。この幕府の創立者であり、その後250年以上にわたって日本を統治した徳川将軍家の祖となったのが徳川家康である。この徳川家康を祀るための霊廟である東照宮が造営されてから以後は、全国の各藩大名の参詣はもちろん、代々の将軍の参拝や朝廷からの例幣使の派遣が行われ、また、朝鮮通信使の参詣が行われるなど、日光山は徳川将軍家を事実上の頂点とする江戸時代の政治体制を支えるための極めて重要な役割を果たした。
 登録資産は、明治時代初期の神仏分離実施により二荒山神社、東照宮、輪王寺の3つの宗教法人に分割管理するようになったもので、その際に若干の変動があったが、依然として日本宗教の特質である神仏の混交の歴史を現す顕著な事例である。
 また、現代に至るまで神道や仏教をはじめとする多くの宗教儀礼や行事が受け継がれ、市民の生活や精神の中に文化として生き続けている。

 登録資産のうち、特に東照宮(1636年建設、初代将軍徳川家康霊廟)と大猷院霊廟(1654年建設、三代将軍徳川家光霊廟)の2つの将軍の霊廟は、日本近世の宗教建築を代表するものであり、この時代の建築様式の最も重要な見本となっている。
 ここでは、本殿に拝殿を石の間で連結した「権現造」の形式が完成され、その後の霊廟と神社の建築の規範的形式となった。
 また、中世後期以降に発達した彫刻・彩色・漆塗・飾金具・箔押し・蒔絵・象嵌等の建築装飾の技法が完成されるとともに、石垣の石積みや、銅製の鳥居・灯籠等の鋳造にも、当時の第一級の技術が用いられた。
 さらに、建造物全体で統一的表現を生み出すため、建造物の配置法と個々の建物の彩色や形態に優れた工夫が行われた。
 また、造営当初から、銅板製の瓦を使用し、また用水路と水槽を設け、石垣と漆喰を塗り銅板を被せた防火扉や、防火壁を設けるなどの、当時としては先進的な優れた防火技術が用いられた。
 東照宮と大猷院霊廟以外の輪王寺と二荒山神社の建物も、東照宮と大猷院霊廟に相応しいように、幕府が支援して、当時の第一級の技術によって造られた。
 17世紀初めの日光の建築は、徳川幕府の主任建築家である大棟梁甲良豊後守宗広、平内大隅守応勝や主任画家である狩野探幽等が意匠を担当した。近世のはじまりを代表する華やかな装飾をふんだんに用いた日光の建築は、多くの芸術家個人の名が知られることに特徴がある。天才芸術家達の最も初期の時代の大規模な作品群が日光である。
 登録資産である建造物群に対しては、江戸時代を通して職人集団が日光の町に常駐し、幕府の管理の下で彼らの手による定期的な修理が行われた。特に、東照宮では、時代時代の最高の技術を加えて修理が行われ、江戸時代を通じて最高の技術で保たれた。
 明治維新後も早くから文化財として保護され、現代に至るまで、絶え間なく美しい姿を保ってきたことは、日光の建築の大きな特徴となっている。
 また、建造物群の周辺の森林も幕府の手により管理され、自然の状態に近い景観が今までずっと維持されている。

 以上の東照宮、輪王寺や二荒山神社の建物103棟は、これらを取りまく数百年を経た杉の大樹等の環境資源と一体となって、日本を代表する宗教建築群を形成している。

世界遺産価値基準に適合する根拠
  1. 登録資産を構成する個々の建造物は、天才的な芸術家達の作品であって、高い芸術的価値をもつ。

  2. 登録資産のうち、東照宮と大猷院霊廟は、日本の宗教建築の様式としては最も近世的である権現造の形式が完成され、その後の霊廟建築や神社建築の規範として大きな影響力を保ち続けた重要な事例群である。
     全体としての群は、建築装飾や建造物全体で統一的表現を生み出すための建造物の配置法や彩色効果を取り入れた優れた建築景観をなしており、江戸時代における廟を中心とする神社と寺院の威容を伝える建築群で、特に、東照宮境内の建築群は、日本の古い形態の建築様式を知る上で重要な見本である。
     また、神格化された山や森などの文化的景観を背景として、その前面の傾斜面に社殿が位置する立地環境は、日本の神社境内の代表的な景観構成のあり方を示す。

  3. 登録資産は、江戸時代初期に、徳川幕府の創立者である徳川家康の霊廟である東照宮の造営によって、現在の建造物群が形成された。その後は、代々の将軍の参拝や朝廷からの例幣使の派遣などが行われ、また朝鮮通信使も参詣しており、江戸時代の政治体制を支えるための極めて重要な歴史的役割を果たしており、江戸時代の代表的な史跡のひとつである。
     また、これらの建造物群は、神道や仏教など日本の宗教的空間の特質を現す顕著な事例であって、これらをとりまく自然環境は、宗教的活動空間と一体をなしており、特定の山や森を神格化しようとした古代以来の日本的宗教空間を継承するもので、日本独持の神道思想と密接に関係する遺跡(文化的景観)の顕著な事例である。加えて、日光では神道や仏教をはじめとする宗教儀礼や行事が盛んに行われ、市民の生活や精神の中に資産が活用され、文化として生き続けている。
保存修復の歴史
 登録資産は江戸時代初期の造営以来、適切な修理が行われ、また、度重なる災害に見舞われたが、その都度資料に基づき旧来どおり復旧してきた。このため、解体修理を必要とするような建物は、神橋、三重塔など数棟を残すのみとなっている。
 さらに、痛みやすい環境にある建造物ではあるが、屋根修理、彩色修理、腐朽部の部分修理等についても、建造物の維持のための管理が適切に行われてきた。
 根本的な修理を完了した建物は、その後の維持管理についても定期的な彩色修理、腐朽部の部分修理等を適切に実施してきている。
 江戸時代には、幕府によって、定期的な修理が、常駐した職人集団により行われた。特に、東照宮では、時代時代の最高の技術を加えて修理が行われ、江戸時代を通じて最高の技術で保たれた。
 1897年に「古社寺保存法」が制定されてからは、文化財保護を目的とした近代的な保存修理が行われるようになった。日光には専任の技師が置かれ、その指導・監督のもとで、破損の著しい建物から順次根本的な修理が行われた。
 登録資産を構成する建造物群の修理工事は、明治以来、専門技術者のいる(財)日光社寺文化財保存会(旧日光社寺修繕事務所)が所有者から受託して行っている。修理方法は、破損の程度等によって、根本修理(解体修理・半解体修理)と維持修理(屋根葺替・部分修理・塗装修理)とに分けられる。修理の際には、専門技術者が詳細な調査・設計・監理にあたり、完了後に修理の記録を取りまとめた修理工事報告書を刊行している。
 日光の修理の特徴は、建物の外部を美しく塗っている漆や彩色を定期的に伝統的な材料技術で維持修理していく作業を続けているところである。この建造物彩色の技術は、文化財保護法で定める「選定保存技術」として、(財)日光社寺文化財保存会が技術保持団体として認定され、毎年の国庫補助により、全国と日光の修理技能者の実務研修を実施している。日光の歴史的建造物保護の技術は、高い質が将来とも伝承できるシステムを備えている。
 また、建造物群周辺の森林は、山岳信仰の聖地としての面影を残している。これらの森林は、登録資産の宗教活動の中で植林されたもので、記録に残るものは15世紀からで、東照宮や大猷院霊廟の造営の際にも植林が行われ、建造物群と一体となった自然環境(文化的景観)を形成している。登録資産は、これらの森林によって市街地から切り離され、良好な宗教空間が維持されている。

※世界遺産一覧表記載推薦書より抜粋

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